留学、そして海外派遣で見聞した“リアル”。
世界と伍して競い合う難しさを知る。


忘れもしない13歳の冬、私はテレビ画面にくぎ付けになっていました。映し出されていたのはドキュメンタリー番組『電子立国日本の自叙伝』(NHKスペシャル、1991年、6回シリーズ)。1980年代末までの日米の半導体開発競争の歴史-それはすなわち現代における世界のエレクトロニクス史でもあるわけですが-を追ったもので、面白いなぁと夢中になって視聴しました。当時は半導体が「産業の米」と言われていたのですが、その意味が良くわかりましたし、何といっても最先端のハイテク研究が、実に地道な、時にローテクと思えるような実験によって支えられているという点に興味を持ちました。これからの科学技術の基盤となる「材料」を学びたい、ならば東北大学だ! と比較的早い時期に目標を決めました。

では、研究者になろうとしたのはいつの頃か、と訊かれると、少し答えに窮してしまいます。父が情報科学系の研究者でしたから、イメージしやすい身近な職業だったということは言えるかもしれません。どんな道に進むにせよ必須、と考えていたのは「英語力」と「博士学位」でした。前者に関しては、学部3年生のとき、交換留学生としてカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)で学びました。ちょうど中村修二先生(2014年度ノーベル物理学賞受賞)が、日本の会社を退社し、UCSB材料物性工学科の教授に就任された頃ですね。しっかり著作にサインを頂いてきました(笑)。

UCSBで驚いたのは、学生たちのハードワーカーぶりでした。図書館も24時間空いていますし、平日は深夜までしゃかりきに勉強して、週末は遊びを楽しむというルーティンが確立されているようでした。もちろん日本の我が学友たちも真面目に勉強していますが、その熱意と貪欲さにおいて負けているとはっきり認めざるを得ませんでした。これでは“世界”と、少なくとも米国の研究者と伍して戦えないのではないか、とネガティブな気持ちになったことを覚えています。最近はグローバルという言葉もすっかり定着しましたが、こんなにも日常的に遣われるようになるずっと以前から、自然科学の研究のフィールドは“世界”なのですから。このように学部生の一時期を海外で過ごしたことは、英語力の涵養はもとより、海の向こうの“リアル”や異文化を見聞し、新しい視野を獲得としたという点で、大きな意味と意義があったように思います。

もうひとつ私にとって大きな収穫となった体験があります。それは、IBMチューリッヒ研究所(IBM Research – Zurich)への海外派遣です。1956年に設立された同研究所は、IBMの営利事業とは一線を画し、人類の発展に寄与する自然科学の基礎研究に取り組む拠点と位置付けられており、1986年、1987年と2年連続して4名のノーベル物理学賞受賞者を輩出したことでも知られています※1。近年は、量子コンピュータの研究が大きな柱となっていて、私が取り組んでいる領域ともリンクします。これまでの論文を送り、興味を持っていただけるかどうかコンタクトを取ったところ、快く受け入れてくださいました。それまでに高く評価していただいた研究成果があったことも幸いしましたが、意欲と情熱、アイデアと独創性を持つ人物に扉を開く-それがIBMチューリッヒ研究所の理念のようでした。Dr.Gian Salisの研究チームの一員として、時間分解スピン計測法を学んだ1年間はまた、新しい研究文化・価値観に触れる貴重な機会となったのです。(後編に続く)

(図/写真1)ツェルマットからゴルナーグラートに行く途中、シュヴァルツゼーから望んだマッターホルンとともに。

(図/写真1)IBMチューリッヒ研究所の研究員たちは、平日の朝9時から午後6時までは研究に集中し(コーヒーブレークとランチの時間もしっかり取るのですが)、週末は自然の中で過ごすなどしてリラックスしていました。私たち日本人の感覚・価値観からすると、「実働時間が少なすぎる、これで成果が出せるのだろうか」と心配になるほどですが(笑)、彼らは世界の耳目を集める結果を出しているのです。写真は、同研究所滞在中の一枚。ツェルマットからゴルナーグラートに行く途中、シュヴァルツゼーから望んだマッターホルンとともに。

※1
1986年の受賞者は、ゲルト・ビーニッヒ、ならびにハインリッヒ・ローラー。授賞理由は「走査型トンネル電子顕微鏡の設計」。1987年はヨハネス・ゲオルク・ベドノルツ、カール・アレクサンダー・ミュラー両名の「セラミックスの超伝導体を発見したことによる重要なブレイクスルー」に対し贈られた。
取材風景
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