自由に振る舞うスピンを揃え、正確に制御する。
新規的アプローチによる技術を開発。


“世の中の役に立つ発想の最初は、ひとりの研究者の頭の中から生まれる”―これはIBMチューリッヒ研究所のグループリーダーがしばしば口にしていた言葉です。では、一人ひとりの力を十二分に発揮させるためにはどうしたらよいのか。同研究所ではポテンシャルを引き出すための、あるいはデッドロックに陥らせないための工夫がされていました。その一つが、午前10時15分から11時までのコーヒーブレークです。ここでは所員全員が会し、コーヒー片手に雑談、打ち合わせや情報交換をします。様々な分野のエキスパートが集まっているので、わからないことは“その道の専門家”に直接聞くことができますし、研究上の課題を相談することもできます。カジュアルトークの中から新しいアイデアが生まれ、横断的な融合研究に発展することもあるでしょう。こうした機会を日々維持し、機能させているのは素晴らしいと思いました。

「これからの科学技術が、私たちの暮らしをどう変えていくのだろう」と想像するのはワクワクするものです。次代の技術として期待を集めているものの一つに量子コンピュータがあります。現在のコンピュータと異なり、並列計算により超高速演算を可能にする量子コンピュータは、データベース検索や情報セキュリティ(暗号技術)、シミュレーションなどを劇的に進化させるといわれています。まさに革新ですね。この量子情報処理分野の基本単位は、キュービット(量子ビット:quantum bit)であり、その動作原理を利用するために必要な技術の候補が「スピントロニクス」です。

さて、電子には「電荷」「スピン」という2つの物理量があります。これまでの半導体エレクトロニクスは電荷の自由度を巧みに操ることによって発展してきました。一方、“上向き下向きの磁石”に例えられるスピンは、その安定的な磁化の性質を用いてハードディスクドライブなどの不揮発性メモリ※2に展開されてきました。この電荷とスピンの2つの自由度を同時に活用しようというのが「スピントロニクス」です。スピントロニクスを用いたデバイスを実現するためには、スピンの生成や正確な制御技術を確立しなければなりません。この難しいミッションが、私の研究テーマです。

磁性の源であるスピンを生成したり制御したりするためには、磁場が必要です。しかし、将来的にデバイスに実装されることを考えた場合、磁場を生み出すために磁性体を外付けするのは現実的ではありませんし、スピンだけに選択的に影響を与える磁場でなければなりません。一方で、非常に興味深い現象があります。軌道運動する電子は、相対論効果により有効的に磁場を感じます。スピン(が有する磁気モーメント)は、この磁場と互いに力を及ぼし合うのです。これを「スピン軌道相互作用」といい、この作用によって生じる「内部有効磁場」は、スピンのみに働きかける力となります。私は、ゲート電圧(電場)により、内部有効磁場を自在にコントロールすることで、電流を流すだけでスピンの向きを揃えたり、互いのスピンの向きを揃えたまま長距離まで輸送できたりすることを明らかにしてきました。従来の磁場による制御とは、まったく異なる新規的なアプローチです。スピンが一軸方向にそろって、まるでダンスをしているように動く-ミクロの世界のそんな美しい情景を追い求めています。

(図/写真2)InGaAs量子井戸にゲート電圧を印加することで、スピン軌道相互作用を制御し、スピンの向きが揃った電流を生み出す技術や、互いのスピンの向きが揃った状態で長距離までスピンが持つ情報を輸送できる技術を開発。

(図/写真2)InGaAs量子井戸にゲート電圧を印加することで、スピン軌道相互作用を制御し、スピンの向きが揃った電流を生み出す技術や、互いのスピンの向きが揃った状態で長距離までスピンが持つ情報を輸送できる技術を開発。外部磁場や強磁性体を一切必要とせずにスピンの向きを揃えられるこれらの技術は、半導体スピントロニクスに対し大きなインパクトを与えました。

遠い将来までを考えて計画することを「百年の計」などと言いますが、私たちは「20年以上先に社会で必要とされる基礎研究」を前提に置いています。10年なのか、100年なのか、その射程は分野・領域によって異なると思いますが、研究に携わる者ならば誰でも、自身の営為がいずれ人類の役に立つものになってほしいと強く願っています。
 基礎研究とは、薄闇の中を手さぐりで歩むようなものです。それが誰も成したことのない先進的なものであればあるほど、その闇は深く濃くなります。しかしそんな暗中模索の中でも、ひとつの実験結果が行く手を明るく照らしてくれることがあります。こうした新しい可能性に胸を躍らせる瞬間があるからこそ、私たち研究者はその歩みを止めることはないのです。未来を切り拓く情熱とともに。

※2
不揮発性メモリ:電源を切っても、記憶内容を保持できるメモリのこと。不揮発性ストレージにはROM、フラッシュメモリ、ほとんどの種類の磁気記憶装置(ハードディスクドライブ、フロッピーディスク、磁気テープなど)、光ディスクなどがある。電源を供給しないと記憶が保持できないメモリは揮発性メモリと呼ばれる。
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