鋼材に侵入し、破壊に至らせる水素。
材料中へ侵入した水素の可視化に成功。


前編の冒頭、温暖化防止に向けた温室効果ガス削減の取り組みについてお話をしましたが、これからは地球環境に配慮しながら持続可能な開発を成し遂げていかなければなりません。限りある資源を有効に活用し、循環させていく、あるいはライフサイクルコスト※1を低減するために重要となる技術の一つが、金属が腐食するのを防ぐ「防食」です。

鋼等の金属材料は、いずれ腐食するという宿命的な欠点があります。現に腐食によって失われている経済的な損失額はかなりの金額であり、GNP(国民総生産)の1%にのぼるという試算があります。それでも1970年代、腐食コストはGNPの3~4%ともいわれましたから、材料開発、腐食メカニズムへの理解や防食技術の普及が奏功したといえるのではないでしょうか。工学が果たしてきた役割は、大きいものがありますね。

鋼材の安全性や信頼性を損なうものに水素脆化(遅れ破壊)があります。これは主に鋼材の腐食によって水素が侵入し、鋼がもろくなる(延性の低下)現象で、ある期間を経て、突然破壊に至ります。産業界からの要請が高い鉄鋼材料の高強度化によって、水素脆化の感受性が増大してしまうというトレードオフ的な背景があり、侵入の抑制が大きな課題となっています。

水素が局在化する場所・程度や水素の侵入・拡散パスを知ることができれば、防御・対策、維持補修につなげることができます。しかし、最も小さい元素である水素の検出には表面分析手法の多くが原理的に適用できず、鋼中の水素固溶度も低いため、材料中の水素をリアルタイム観察することは非常に難しいのです。私が着目したのは、電気化学的酸化還元により色が変わるWO3(三酸化タングステン)のエレクトロクロミックという特性。この原理はすでにスマートウィンドウや電子カーテン、車の防眩(ぼうげん)ミラーなどに実用されています。WO3とPd(パラジウム)からなるナノオーダーの薄膜をスパッタリング(高エネルギーの粒子をターゲットに衝突させ、弾き出された原子を堆積させて薄膜をつくる技術)で形成。このセンサで純鉄に侵入し透過した水素を検出・可視化することに成功しました。

一方、水素侵入の抑制に向けては、鋼母材の表面にあらかじめ窒化層を形成させるプラズマ窒化処理が有効であることを見い出しました。私たちの研究では水素侵入量を1/50程度まで低減させることが可能であるとのデータを得ています。この表面制御技術は、たとえば高圧の水素ガスにさらされる水素エネルギー関連材料にも応用が可能であり、クリーンエネルギーとして注目される水素を活用する社会を支える技術としても期待されます。

私たちの研究は、工学の礎となる基礎研究に地道に取り組む一方、社会や産業の中に“今”ある課題に向き合い、解決の道を模索していきます。その使命と責任を考える時、思い出す言葉があります。新渡戸稲造※2の“真の学問は筆記できるものではない。真の学問は行と行との間にある。”という名言です。ちなみに私の生家の近くに新渡戸先生の生誕の地があり、親しく感じながらも尊敬の念を抱いてきました。この言葉は、書物にあることを鵜呑みにするのではなく、自分自身で考えていくことが大切であると説いています。誰でもない独自の思考と行動に依って立つべきということでしょう。研究もこれまでの常識や“当たり前”にとらわれていては前に進むことはできません。なぜ?を原動力に新しいテーマに果敢に挑んでいきたいと思います。

(図/写真2)鋼材へ侵入した水素を可視化するWO3薄膜を利用した新手法。反対側の表面から侵入した水素に反応して、色が水色から濃い青色に変化する様子が観察できる。今後は空間分解能、時間分解能を向上させ、鋼材の水素侵入サイトの解明に挑む。

(図/写真2)鋼材へ侵入した水素を可視化するWO3薄膜を利用した新手法。反対側の表面から侵入した水素に反応して、色が水色から濃い青色に変化する様子が観察できる。今後は空間分解能、時間分解能を向上させ、鋼材の水素侵入サイトの解明に挑む。

※1
ライフサイクルコスト:製品や構造物などの費用を、調達・製造から運用・メンテナンス、そして廃棄までトータルして考えたもの。初期建設費であるイニシャルコストとランニングコストにより構成される。生涯費用。
※2
新渡戸稲造:1862-1933年、日本の教育者・思想家、農業経済学・農学研究家。国際連盟事務次長も務め、『Bushido: The Soul of Japan(武士道)』を著した。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。1984~2007年まで発行されていた日本銀行5000円券の肖像としても知られる。
取材風景
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